独り言 |
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待望の海を見に、千倉へ行って来た。 テレビ局時代の友人が、リタイアして、千倉に家を新築してから、数度訪れているが、ここ2年ばかりは、母の介護で、ご無沙汰をしていたため、彼らとの再会も楽しみだった。 飲み仲間の一人であったK氏とは、40年もの付き合いで、奥さんのFちゃんとも、昔からの知り合いであったから。 館山駅へ迎えに来てくれた彼は、家に行く前に、海が見たいであろうと、白浜から千倉の瀬戸海岸へと、車を海岸沿いに走らせてくれて、途中何箇所かで、車から降りて、存分に海を眺めさせてくれた。 波光きらめく青い、青い海。岩に砕け散る白波。果てしなく広がる水平線。グラデーションをかけたような、沖合いへ向けての濃淡と、色の変化。そして沈む夕日と、それを受けて照り返る海水と海岸の石畳・・・。 到底、筆舌には尽くし難い光景を目にして、狂喜乱舞せんばかりの私に、「海が好きだとは知っていたが、これほど喜ぶ人も珍しい」と、彼は笑っていたし、紀州の海を見て育ったというFちゃんは、幼い頃から海を見飽きているせいか、「ほら、ほら、この神秘的な空と海の色を見てよ・・・」と、デジカメのプレビュー画面を示しながら、家に着いても、興奮冷めやらぬ私に、半ば呆れていた。 何日居てもいいから、ゆっくりしていくように、と、彼らは勧めてくれたが、今回は一泊しただけで、辞去して来た。 分骨して家に祀ってある母が、帰りを待っているような気がして、長く留守にするのは、可哀想だったから。 翌朝も、朝食前に海岸を散歩して来たし、帰りは、ローズマリー公園経由で、行きとは逆のコースを辿って、海沿いをドライヴ。前日とは、また違う海の表情を、たっぷり味わうことができた。 東京に戻ってからも、4~5日間は、まだ余韻に浸りきった状態が続いていた。瞼の裏には、海のさまざまなシーンが、しっかりと焼きついており、耳の底には、波の打ち寄せる音が、こびりついていて、誰かに話しでもすれば、あの感動が薄れてしまいそうな気がしていた。 写真もかなり撮ってはきたが、果たしてあの素晴らしさを、どれだけ記録にとどめられたかは、疑わしい。 私は、仕事の関係で、昔から、映像に対する思い入れは強かったものの、周囲にプロのカメラマンが大勢いたから、HP作りを始めるまでは、自分で、カメラをいじってみる気にはなれなかった。 まさに「百聞は一見に如かず」で、どんなに美辞麗句を連ねて、表現したところで、一枚の写真が与える感動には、遠く及ばない。それが、映像の持つ魅力というものだと思うが、それだけに、「餅は餅屋に」と、考えていたから。 パソコンに写真を取り込んで、一枚ずつチェックしていると、千倉で過ごした幸せな気分が、まざまざと甦ってきた。 夜の帳が下りる頃には、ぐつぐつ煮える鍋を囲んでの楽しい宴が始まった。 剣菱を酌み交わしながら、夜な夜な飲み歩いていた頃の懐旧談に始まって、数日前に彼らも参列したという、時代劇そのままのこの土地の葬列の様子や、外国に住むお子さん一家のことなど、話題は、それからそれへと尽きなかった。 胃を切除して以来、殆どお酒を飲まなくなっていた私も、つい杯に手が伸びるのであった。 心地よい気分に身をゆだねていたら、須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」の、冒頭の「星のかわりに、夜ごと、ことばに灯がともる」という詩の一節が浮んできて、私の心にも、ぽっと灯がともったように、ほっこりとしてきた。 遠く、かすかに海鳴りの音が聞こえるような気もしたが、闇に包まれて、静かに、千倉の夜は更けていったのであった。
by pooch_ai
| 2005-11-13 21:39
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